わたしの足はギリシャ型

あうくつがない

ポジティブな差別

ストラテラを処方されでもうすぐ5年、あんなに好きだった文を書くことも言いたいことをひたすら並べる作業もただダルく感じるようになり、もう文章書く必要、書く理由があまりないのでひっそりとこのブログを消してなかったことにしたい気持ちしかないのだけど、久しぶりに書きたいことが浮かんできたのでとりあえず書く。

書き出しの割に組み立てがイマイチ思いつかないけれど、仕方がない。

 


コロナの影響で中高生が部活動ができなくなったからか、いままでならTVで夏に見かける部活をしている中高生は野球部一択だったが、あらゆる部活動のリモートの様子がニュース番組で見かけるようになった。感染症対策に難儀してそうな合唱やら、水泳、吹奏楽。見かけるたびに思うのは自分より一回り以上は下の子供たちなのに部長くらいになる子はほんとにしっかりしてるなぁってこと。

思えば私が部活をしていた時も部長になるような子はとてもしっかりしていた。部員が多めの部活にいたので、部長は投票で決めていたのだけど、同じ年数生きてる同級生でさえ人間がかなり出来てて、話すことも説得力が違ったし、性格も良かった。

発言が年齢の割に達観していたり人間ができている人に対して「人生2周目」などと揶揄する言い方があるが、その通りに言えば人生1周は多いんだろうなって子が部長に選ばれる。

だけどどうだろう。1年の時に同時に入部して少なくとも2年間苦楽を共にして、泣いたり笑ったりしてきた仲間が少し周りを思いやったりしただけで「あの子は人生2周目だから」と割り切ることは出来るのだろうか。

自分も同じではないにしろ似た景色を見てきたのにそのようなおおらかな考えに至れなくて悔しくなったりしないだろうか。

人間は環境も体質も感覚も全て違うし、違うということはその時代時代にあった向き不向きも絶対ある。同じ学校にいて、たまたま選んだ部活が同じってだけで他にこれといった共通点のない人たちが集まる部活ですら人間力の差を見せつけられ嫌になってたけど、視点だったり学びの姿勢だったりが違えばそりゃ結果が変わって当然だろうと今なら思うし、悔しがる前にやらなきゃならんことをやらなきゃなぁと少し自分に喝を入れている。

私は子供の頃から疲れやすくて家に帰ればボーッとする時間がないとしんどくなる体質なんだけども、逆にボーッとしてるとしんどい人は勉強やら運動やらをするんだろうし、ボーッとしないと辛い体質は仕方ないにしろ、ボーッとしているのが辛い体質の人の結果が優れていたからと言って「人生2周目だからね、」と諦めるのはなんか違うよなと気づいた。そもそもその人の苦労もろくに知らないで「あの人はほかの人と違う人だから」と諦めるのは、なんというかポジティブな差別意識だよなぁと思う。

うまく言えんけども。

 


書きたいことがあった、と言いながら全くうまく書けず思えず言い切れず、でめっちゃすみませんって感じなのですがとりあえず8月末日、ポジティブな差別もやめようと思った話でした。